大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台地方裁判所古川支部 昭和34年(わ)49号 判決

被告人 氏家正

大一五・一一・七生 自動車運転者

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は起訴状によると、被告人は国有鉄道経営乗合自動車の運転手であるが、昭和三十四年三月十六日午前九時二十八分頃古川発一関行乗合自動車宮二・あ・九〇一四号を運転し、栗原郡築館町富野字城生野所在城生野停留場において一般乗客を乗降せしめた後発車しようとした。現場は国道四号線中に在つてその幅七・五メートル、西南から東北に直線にのびた歩車道の区別のない非舗装平坦な場所で、左右に人家が点在する交通量が比較的閑散なのを例とするところであるが、停留場の反対側即ち上り線停留場の側に乗車券売場があり、当時その売場附近に小型貨物自動四輪車が停車していたので、発車間際に乗車券を求めて狽てて乗車する者が良く見かけられることであるのに思を致し、右小型自動車の陰から進路に出て来る者がないかどうかを注意するは勿論、後写鏡下写鏡によつて車輛の両側等に最善の注意を払つて、危険のないことを確認してから発進する等、道路及び交通の状況に応じ他に危害を及ぼさないような方法で運転すべき業務上の注意義務があるのにもかかわらず、交通量が少なかつたので漫然危険がないものと軽信してこれを怠り、単に警音器を一回短かく鳴らしただけで発進し道路の中央部に出たため、反対側の前記乗車券売場から同所前に停車していた小型四輪車の背後を通り被告人運転の自動車に乗ろうとしてか、その右側を通つて直前に小走りに出た高橋とへの姿が、右把手なので発進間際に直接見得たか又は右側後写鏡に写し出された筈なのにこれに気付かず、車輛の前部を同人に衝突せしめてこれを転倒させ、その身体の上を通つて、左後車輪で胸部及び頭部を轢圧し、頭蓋骨及び全肋骨骨折による内臓損傷のため、同所において同人を即死するに至らしめたものであるというにある。

検察官作成の佐藤正吉の供述調書、証人高橋ましよ・地村昭三郎・高橋辰造の各証言、当裁判所の第一次検証の結果、医師日野信の高橋とへについての死体検案書、司法警察員や検察官作成の被告人の各供述調書及び被告人の当公判廷の供述を総合すると、被告人は起訴状記載の職務を有すること、起訴状記載の日時場所において同記載のとおりの状況の下に高橋とへ(当時七十六年)を轢き、その記載の如き損傷を与へて即死させたこと、現場の模様も起訴状のとおりであることが認定できる。

然し次のことも認定できる。即ち被告人が自動車を発車する際警音器を鳴らしてからギヤーを入れ、車が動き出してから若干進行した時、(佐藤正吉の調書によれば四間位進行した時と述べておるが、高橋ましよの証言と比較して誇大に過ぎると思われる。けれども若干進行後であることは明らかである。)車の進行方向右角斜後から被害者とへが小走りに車を追いかけ追い越し前方に出て、車の下に転げ込んだこと、本件自動車は警音器を鳴らして発進するまで四秒位かかること、当時城生野停留場では人通りも少なく、乗降客も少なく、本件の場合は降客三人で乗客は一人もない有様で、過去十年間に発車間際に狽てて乗車する例は一つもなかつたこと、被告人は停車中も左右の後写鏡及び下写鏡を見ていたが人影は見えなかつたこと、車掌の発車の合図の後更にこれらの写鏡を見て安全を確めて警音器を鳴らし、ギヤーを入れて静かに発進したこと、被害者は当時本件自動車に乗車する予定であつたらしいことが認定できる。

人の歩行速度は普通一時間一里即ち一秒一・一メートルで短距離を小走りで歩く時はその倍以上に達することは経験則上明らかである。従つて被害者は警音器吹鳴の時は自動車の右角から八米以上離れたところに居たものと推定される。その際被害者が自動車の横に居たか、後方に居たかは判断する証拠がないが、前記認定の如く停車中後写鏡に人影が写らなかつたとすれば道路外か、(小便等のため)乗車券売場前の小型四輪車の陰かいずれにしても被告人に見えぬところに居たものと推定しなければならぬ。この時被告人が被害者を発見し得た筈だと解すべき証拠はない。(第一次検証調書添付第三図参照)かかる際而も前記認定の如く人通りも稀な乗降客の少ない過去十年間一度も発車間際に狽てて乗車する人を見かけなかつた城生野停留場において、発車後の自動車に反対側から車を追いかけ車の前方を横切つて乗る人がある等とは何人も予想しないところで、何人かがかかる挙動に出るかも知れぬと注意するという如き極度の注意義務は乗合自動車の運転手にはないものといわねばならぬ。ギヤーを入れた後車が動き初めた際被告人が再び各鏡を見なかつたことは被告人の自認するところであるが、車が動きだした後被害者が車を追いかけて車の前方に出たこと前記認定のとおりであるから、発進の際は左の下写鏡に被害者は写らなかつたし、発進後は前方注視の義務の方が重大であつて、左右を見る如きは却つて危険を招来するおそれがあるから、この点についても被告人に過失の責はなかつたものである。

以上いずれにしても被告人には注意義務違反の点がないので刑事訴訟法第三百三十六条前段に則り無罪の言渡をなすものとする。

(裁判官 秋山五郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例